馬返しの由来と大文司屋の始まり
昔は、馬を利用して登山をする人も少なくはなかったようで、そこから先は道が険しくなって馬を引くことができず、馬を下りて山に登り始めるところを、馬返しと呼んだそうです。富士山は麓から頂上までの間が三区分され、それぞれ草山、木山、焼山と呼ばれていましたが、馬返しは草山と木山の境にあたり、富士山の信仰領域の基点となる場所でした。そんな吉田口登山道1合目下の馬返しに遡ること江戸時代、私から5代前の安左衛門によって設立されました。江戸をはじめ日本各地から多くの富士講が訪れた吉田口は、いくつもある登山道の中で、最も盛況を博しました。人々はここの茶屋で休憩し、道中の身支度を整えました。鳥居の下では正座し、お祓いを受け、身を清めてから富士山頂を目指していたそうです。昭和天皇の御大典に梨元宮が吉田口から富士を登り、大文司屋で休息をとられたこともありました。昭和4年に大月駅~富士吉田駅(現富士山駅)間で富士山麓電気鉄道(現富士急行線)が開通、浅間神社近くに富士山自動車(株)が設立されると、自動車で馬返しまで登れるようになり、一般登山者も吉田口から富士の頂を目指すようになりました。